よく言われます「美味しいワインを造るんだから日本酒造りなぞ辞めろよ、、」
1) 辞めない理由は一人の青年の厚い情熱が脈々と受け継がれているからなのです。
1867年、舟問屋を営んでいた曽我家は清酒造りを創業します。地元に愛される清酒を造る小さな蔵でした。当時の代表銘柄は「泉瀧(いずみたき)」。しかし昭和17年,
第二次世界大戦が激しくなるにつれ米不足が深刻になり、小さな蔵でありながら75年
続いた「小布施蔵」は日本国の国策により「廃業」を余儀なくされます。家業を失った曽我市之丞はやむなく「ワイン(果実酒)造り」を始めます。
2) 戦中戦後の苦しい中でのワイン造りは大変辛かったと聞いています(しかし紛れも無く戦中、戦後曽我家の家系を支えてきたのが「ワイン造り」でした)。市之丞は自分の代で家業である「清酒造り」を廃業させてしまった事に責任を感じていました(彼は生まれつき体が弱く徴兵検査でも甲種合格にならず、国に貢献できなかったため清酒製造免許を国に没収されたのは自分の責任だと思っていました)。戦後「自分の眼の黒いうちに必ず清酒造りを復活させる。」が彼の口癖になったのです。
3) それ以降、市之丞は国税局をはじめとするお役所のお百度参りが始まります。役所参りには御役人さんに顔を覚えてもらえる様、山高帽にモーニング姿だったそうです。時が経ち御役人さんも「またモーニングのオッチャンがきてるよ」と言わせる事ができるように なった昭和37年、当時としては異例(このような小さな蔵の復活は例になかった)清酒製造免許復活が果たされたのでした。その後、市之丞は安らかに息を引き取りました。しかし清酒免許が復活したといってもすでに浮かれている時代ではありませんでした。20年のブランクがあり、すでにお得意様は無くなっていたのでした。そこで清酒造りを支えてくれたのが「ワイン造り」です
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4) 小布施のワイン造りと酒造りは一身同体なのです
市之丞の情熱で勝ち得た日本酒造りを休業する事は「曽我家」では永遠にありえません。たとえ製造量が少なく利益が出なくとも市之丞の志を継いだ曽我家は家訓として子々孫々と日本酒を造りつづけていく、そして戦中、戦後の苦しい時代、曽我家を支えてきたワイン造りも同じく私たちの家業でありつづけます。
気持ちがあれば半世紀前の施設でも珠玉の酒が造れるはずです
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